2021年7月11日 「生ける水を求めよ」
聖書箇所 ヨハネによる福音書4章5節~30節
「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」ヨハネによる福音書4章14節
サマリアの女がイエス様と出会い、その会話の中からこの女の「心の渇き」がイエス様からいただく「生ける水」によってを満たされる。別な言い方で、「神に背を向けていた者」が「心の渇きによって」「イエスに救われる」こと、私たちもこのように救われていることを御言葉から味わいましょう。」
7節でイエス様の方から「水を飲ませてください」とサマリアの女に話しかけます。福音書の多くは人々がイエスを目当てにやって来ています。そして、悪霊を追い出したり、体を癒やしてくださっています。5000人にパンを与える奇跡をされています。ほかにイエス様を訴えようと粗探しに来る律法学者やファリサイ派の人たちもいます。ここでは逆さまで、イエスの方から来て声をかけています。
イエスは乾いておられる
5,6,7,8節
サマリアのシカルに井戸があって、イエスは旅に疲れて、そこに座ったとあります。日差しの強い中でイエス様は喉も渇いていて、お腹もすいたので、弟子たちがお昼の食事を買いに行っいるのです。1人でいたら、女が水を汲みに来たのです。
そこでイエス様の方から「水を飲ませてください」とサマリアの女に頼んでいます。この女が言ったように、ユダヤ人とサマリア人はずっと昔から大変仲が悪いのです。近づくことも話すこともしないのです。それほど仲が悪いのです。もちろんイエス様はそれを知っていて、声をかけます。それはイエス様が単にのどが乾いていただけではないことを表しています。パレスチナでは乾燥高温地帯なので、この時間に女性の仕事である水を汲みには行かないのです。それが習慣であり、女性の体を守るルールです。それなのにこの女は、1人日中に人目を逃れるように水を汲みに来たのです。そんな彼女を一目見て、何かあると感じたのです。そこで主は最善の切り口で女に話しかけました。
この女がイエス様の「水を飲ませてください」という言葉にどのように反応するかを考えると、次の四つのパターンが私たちには考えられます。
- 何も言わずに立ち去る(習慣通り) 2,何も言わずに水を汲んであげる。(誰も見ていないので) 3,そんなことはできないと言って断って、立ち去る 4,どうしてそのようなことを言うのか、自分の疑問を聞く。
9節
このように女は好奇心が強かったのです。イエス様は、会話を引き出すことができました。この時、イエス様は、この乾ききっている女の心の底まですべてを見通したのです。彼女は長い年月にわたり、焼き付くような渇きをもって、今イエス様の前に立っています。イエス様ご自身も渇き、疲れ、空腹と、体の渇きがあります。しかしイエス様がここに立ち寄った目的は人の渇き、「サマリアが救いを求めて欲しい」と言う渇きがイエス様を支配したのです。ここにイエス様が、水を飲んだり、食事をする姿はありません。主の渇き「サマリアの救い」の道筋はどのようになるのでしょうか。
渇きを気付かせる
10節
イエス様は彼女のために「神の賜物」と「生ける水」二つの言葉を伝えます。「賜物」とはプレゼントのこと。神があなたのために備えられている神の御言葉・イエスキリストの福音です。『生ける水』とは溜めて置いた水、ため池とはではなく、流れる小川、湧き出す泉のように、冷たくて、新鮮な水のようなことです。このことが彼女の病んだ心、渇き切った魂を生き返らせることができるのです。
「自分から願ってその「生ける水」を求めよ」とここで、イエス様は「神様の救い」のことを持ち出し、目の前にある水ではなく、霊的なことを話していることを伝えようとしました。
そして女は当然まだ目の前の井戸ことにこだわりますが、アブラハム、イサク、ヤコブを父と呼び、その信仰が受け継がれていることを証言します。それはイエス様の言葉によりいつの間にか霊的なことへ、女の心が変化をしてきました。女がイエス様をここで「主よ」呼んだことにも表されています。
ヨハネ4:13,14
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。』私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
いよいよここで、イエス様ご自身をあかしされます。「生きた水」をあなたに与えるのは、この私である。
イエス様が与える水は、その人の内にいつも新鮮な泉となって湧き出てくるものである。
13節では福音を信じ、救われました。神の子とされました。けれども「また渇く人」は本当の神の恵みを受け取っていない人たちです。これに対して「生きた水」を飲むものは、心の中に泉があるのです。これが本当の神の恵みです。日照りでもどんなときも、潤っているエデンの園のように、心の中に恵みの泉があるのです。イエス様が私たちの中に住んで、内から新しく造り替えてくださるものです。永遠の命の与え主として、この女にご自身を現したのです。それはこの渇くことのない「生ける水」をいただいて飲んだからです。
15節
イエス様が与える「命に至る水」とイエス様が「私の内におられる」ことをいただくことができなくなるのが罪なのです。私たちが「生きた水」によってリフレッシュされ、罪から清められたいと願うなら、罪を全て捨てなければなりません。
そこでこの後、段落があって16節から話しの内容が突然変わります
この女の罪は夫の問題だということがイエスに拠って明るみにされたのです。女はもう隠しようがありません。イエス様が住んでくださる前に必要なことなのです。神の前に私には何もできない、無力だ感じることです。
70年前に設立した日本イエス・キリスト初代教団委員長は小島伊助先生です。先生はこの14節、15節をこのように言っています。「どういうものをもってしてもだめだ、結局御霊によるしかないと心の底から納得させられるのは、いつのことであろうか」。後半が「私どもの目が開け、自己絶望をし、キリスト一辺倒になることを主はどんなに願いたもうことであろうか。恵まれた人の証を聞こう(詩編16:2)「『あなたは私の主、あなたの他に 私の幸いはない』と。」この後半が16節以降のことです。
臨在と聖霊
何と、この女は、罪を暴露されてもなお、イエス様と会話を続けます。「命に至る生きた水」を願い求めていたので、更に心が開きました。
この女の社会的にも道徳的にも霊的にサマリアの人々から蔑むようような生き方をして、村八分にされていた女でした。この乾いた女が、サマリアの町で、イエスがメシアであると証した最初の人となりました。
イエス様はユダヤ人の都エルサレムでご自身がメシアであることは告げることは無かったのに、この神の真実を、罪深い、救いに飢え乾いたサマリアの女に告げたのです。イエス様の渇きも満たされました。
神の救いは、その条件が、全てにおいて整った人にあるのではないのです。救われる必要があると、自分でひしひしと感じる人に、神が手を伸ばして、救いに招かれるのです。
ですから主は今、あなたを招いておられます。「生きた水をください」といつでも準備しておく必要があるのです。その時永遠の命に至る水が湧き上がるのです。
私たちは、自分には、全く自分を満たすことができないことを、主の渇きによって悟らされ、主を求める渇きを起こるのです。この女のように主が与える「生きた水」を求めると時、新し命に至る実が結ぶのです。わが魂よ主をたたえよと ハレルヤと賛美できるのです。