2021年6月27日 「満ち足りた人生」

聖書箇所 詩編23編

「主は私の羊飼い 私は乏しいことがない」詩編23編1節

 19世紀のイギリスが生んだ偉大な説教者であったチャールズ・スポルジョンは23編を「詩編の中の真珠」と呼んだ。 他の詩編は、嘆きや、祈りが多くあります。この詩にあるのは神による平安と満足がテーマだからでしょう。イスラエルにとっても、私たち聖書を信じて読んでいる者にとっても、親しまれている「羊と羊飼い」の関係を「まことの主」との関係としてすべてをに明け渡した人に与えられところにあります。

 初めの4節までは、私と主を羊と羊飼いの関係にたとえます。5,6節は主と私(宴会に招く王と、招かれる主賓)の関係です。

 1節「主は私の羊飼い」旧約聖書の中で、神とその民の関係を現す比喩がありますが、羊飼いと羊はイスラエルにとって最も自然な受け入れやすい表現です。アブラハム、ヤコブ、そしてモーセ、ダビデも羊飼いが仕事でした。

 羊飼いは当時からイエスの時代に至るまでも、最も身分の低い人たちに与えられた仕事でした。それは内容が過酷であったからです。1日24時間、昼も夜も、雨期も乾期も、羊の面倒を見たのです。羊の食料の青草を与え、水辺に導き、体をケアしてあげ、獣の襲撃から守ることが彼らに完璧な仕事を求められていたのです。

〇聖書の神

 一方で、特に旧約聖書では神は崇高で聖なる存在です。その名を「主」とか「万軍の主」「王の王」と言って、軽々しく近寄ることもその名を呼ぶことのできないお方でした。

 しかし「主は私の羊飼い」として描いているのは、この神が手の届かない存在としてではなく、身近な存在としてあることを示します。神は世界の人類を救う大きな計画をお持ちです。しかし、ここでは羊飼いが常に心を配っているように、主は私たち1人一人のことを心配してくださり、必要を備え、導き、守ってくださる方として描いている。羊というのは自ら自分を守ることができず、ただ羊飼いの声を聞いて従うことしかできないようなか弱い存在です。私たちも本当は羊のように何の力の持っていない弱いそんでであることを示しています。

この羊と羊飼いとの関係はダビデが個人的に思っていたことでもあったのです。ダビデは王である前は、末っ子として、一人羊飼いをしていました。ですから彼は羊飼いというのはが羊にとって、重い責任がある仕事であることを、小さいときから知っていたのでしす。少年ダビデはいつも覚悟して、羊飼いの仕事を任されていたのです。そのなかで、ダビデは主が共にいたので、自分に与えられた羊を守るために多くのライオンや熊戦い、勝ってきたと聖書に書いてあります。

私は乏しいことはない

 ダビデとしては、羊飼いが羊を世話することは、命がけの仕事なのです。それはすべて羊のためであったのです。羊はそのような羊飼いを信頼し、その命をも預けることができると判断ができます。私たちも、すべてにおいて主を信頼し、主に委ねる事ができれば、すべてが与えられに満たされるのです。ここの平安は、これ以上何も必要がないとまで、宣言できるのです。

「主は羊飼い」としてすべてのことで立つなら、今日の御言葉のすべてが満たされた歩みが備えれているということです。

2節

〇私たちは満たされた羊

 パラレリズムという二つのセンテンスを、リズム良く対比してあらわす手法です。二つは同じ守られた環境のもとに於かれていることを強く示します。

 羊は草を満腹になるまで食べ続けるよこになりません。恐怖があるとき、体調が悪いとき等も奏です。大変面倒な家畜です。憩いの汀とは、水辺のことです。綺麗な水でなければ、すぐお腹を壊します。そもそもパレスチナは、砂漠地帯が多く、草地や、水辺を必要なときに必要な量だけ、あるところを、羊飼いは熟知していなければなりません。そうしなければ、一日ももたずにすべての羊は死んでしまいます。ですから、この優秀な羊飼いに養われている羊は、常に安心して、従っていけるのです。

先週も、私にとっても主にとって私の命も体も大切だから養ってくださっているとおっしゃいました。この羊飼いは、羊を養うだけでは無いのです。命や体を養うだけではないのです。

3節

 私の魂、つまり、霊をも養ってくださるのです。死んでいたものを蘇させてくださるというのです。私の魂は死んでいたのです。主は私を休ませ、憩わせ、多くの煩いから、悲しみから、あなたが伴われたことにより、養われ、恵みによって復活させられたのです。今は主イエス・キリストの十字架によって、私たちも復活の命に導かれたのです。

4節「死の陰」という言葉が旧約聖書に18回ほど出てきます。その意味は、深刻な闇という意味合いで、絶体絶命な状況や環境のことを現している。

しかし、もし全知全能の主が、私の羊飼いであり、その知恵の導きによって死の陰の谷を通るのであれば、その道が羊と「あなた」にとって最も安全な道であると確信を持つことができるのです。私たちにとっては、この環境とは生活の中での悩み、苦しみのことです。自分にとっては死に瀕するように感じるときも、もう恐れることはないのです。それはこのような主が「私と共におられる」ことを「知った」「理解した」「心の奥に入ってきた」とになったからです。

ここで、ダビデは、3節までは「主」と言っていたものが、「あなた」かわります。ヤーウェをあなたに置き換えたのは、より親しく、近い存在となったからです。それは「私と共におられ、その鞭と杖がわたしを慰めることを確実に実感しているのです。「死の陰の谷」は出エジプトの荒れ野の40年のことを覚えたでしょう。イスラエルが最も苦しみを味わっているときこそ、主が雲の柱として、導き、岩から真清水を湧かせ、マナやウズラを降らせ、靴も衣も古びなかったと言うように、臨在して、守り、養ってくださったことを思い出します。その時自分の於かれている状況ならなおさら、恵みをくださらないはずはないと、確信したのです。

 ダビデにとって、杖は羊飼いの杖は先がフックになっていて、迷いでそうな羊の首を引っかけるのです。またモーセの杖は神の権威として用いて、民を導いたつえでもあったのです。鞭は羊を外部の的から守るための武器であったのです。いずれも、主は、私たち信仰者を守り、教え導く鞭と杖はになるのは、聖書だけです。今わたしたちは、御言葉を通して、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練してくださると、Ⅱテモテ4章にあるのです。神の言葉こそが生涯の慰めなのです。慰めは恵みと同じく神から頂くものなのです。

 主の宴席に招かれる

5,6節「命あるかぎり 恵みと慈しみが私を追う。

 これは、平安無事の時では無いのです。敵に追いかけられて、迫って来ているとき、そのような時でも、神はあなたのために宴を準備して待っています。敵は近くに迫っていますが、主はその手前の私たちの方に近いところにいて待っておられるのです。そこでは頭にはイエス様がマリアにされたように油をそそいくださるのです。主の後継者としての印です。聖霊で満たして清めてくださるのです。私たちの生活は、神の世界とこの世の世界は、表裏一体なのです。あなたは今主に招かれたことに、知らされるのです。そこは、もう敵が追ってくるのでなく、主の恵みと慈しみがいつも、追い、迫っているです。

 最後に神の世界に足を踏み入れているのです「私は主の家に住もう」と「永遠の住まいおとずれようとしているのです。ここで初めて、私の意思が書いてあります。今までは主なる神様の一方的な恵みと慈しみでした。しかしここは一歩踏み出すのです。ルカ15章に「一匹を見失ったとすれば、99匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し歩かないだろうか。」そうすれば、このような憐れみ深い確かなお方である主イエス・キリストにあって私たちは平安があり満たされた生涯をいただける、着いてくるのです。