2021年6月13日 「隣人を愛する歩み」

説教箇所 ルカ10:25~37

「この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」ルカによる福音書10章36,37節

 10数年も前のこと。私が長い列に並んでいた。 ちょっと後ろの方で人が倒れた。 誰かが面倒見てくれないか。少ししたら、落ち着いたみたいだ。教会の人と目が合った。どこで、なぜ並んでいたのかは覚えていない。見られていた記憶だけがある。私は人の目を見て人に親切にしたりしなかったりすることに気づいた瞬間でもありました。

 今日の「善いサマリア人」のたとえ話は、良く知られていてます。自分と何の関わりも無いと思っている人を私たちが心から愛して行く事はできないのです。イエス様は何をどのようにしたらよいのかを示しているのです。それを共に聞いて見ます。

 この「たとえ話をする」きっかけになったのが今日の25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。」ここが始まりなのです。この律法の専門家とは、モーセ五書、創、出、レビ、民数記、申命記のことを隅から隅まで良く知っていて、教えている人です。そんな専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」とイエス様に聞いたのです。「何をしたら」とは私たちもしばしば思う事です。ユダヤ人も律法を守ることを、信仰としていましたから、なおさらです。

 「イエスを試そうとした」というのは、イエスに恥をかかせようとした。のです。しかしイエスはそれを見抜いて、律法の専門家なら知っているはずとーーーー「律法には何と書いてあるか。」律法学者はそれに答えたます。

それが27、28節

それが27、28節。その答えは100点満点だったのです。それでよかったね。で終わるはずだったのです。

 それは、この箇所は前半が申命記6:5後半がレビ記19:18の言葉なのですがあわせれば十戒の事なのです。

「①私のほかになにものも神としてはならない。②刻んだ像を造ってはならない。③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。④安息日を覚えて、これを聖とせよ。⑤父母を敬え。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨隣人について偽証してはならない。⑩隣人の家をむさぼってはならない。律法と言えば十戒。見事な答えでした。

 このまま引き下がれば、自分が恥をかくと思ったのでしょう。「私の隣人とは誰ですか。」とイエス様に開き直るように質問します。彼は今まで、この十戒を完璧に守り行ってきた自負がありました。彼にとっての隣人とは、同胞だけです。話に出てくるサマリア人は異邦人扱いなのです。彼らも元々は同じイスラエルでしがアッシリアに滅ぼされ混血となったためユダヤ人とは認めていないのです。もちろん他の異邦人も、敵も彼らの隣人ではないとし言い伝えられて来たのです。ですからイエス様が「隣人とは同胞です。」と答えれば、当たり前だ。その律法通りしてきた。又はそれと違っていれば律法には書いていないと、大勢の前で堂々言え一泡吹かせることができるのです。

 そこでイエス様はここで「私の隣人とは誰ですか」と言う質問にだれでも分かるようなお話をされたのです。

 エルサレムからエリコに降る途中に強盗に遭って、瀕死の状態のひとを誰が助けたか。この瀕死の人は文脈からユダヤ人ということがこの話しのポイントです。祭司と次のレビ人はほぼ同じ行動をとります。その人を見ると、避けて通り過ぎた。二人は神殿で仕事をしている、裕福であり立場もある人々です。聖書のことも詳しい。ユダヤ人を代表する人です。見て見ぬふりをするのは私なら、仕事を終えて、疲れている時、また急いでる時です。そういう時は次に来る人が手当すると勝手に決めつけます。

 民数記には死体に触れたものは7日間汚れるとあり、彼らは神殿で働く事ができなくなる恐れがあります。ですから、近づくことも出来なかったのです。律法を守ることを建前としていました。この二人も、勝手な理由をたくさん作って、瀕死のユダヤ人を通り過ぎていったのです。

この人を助けたのは、名も無いサマリア人でした。彼は、持っていたオリーブオイル、ぶどう酒、お金や時間も、自分が乗ってきたロバも遣って、彼を助けたのです。宿屋に泊まらせ、更に必要なものを全て与えると約束しました。このサマリア人は自分たちを嫌い、差別してきたユダヤ人と分かっていたのです。多くの犠牲を一方的に払って、命を救ったのす。このようなことはとっても私にはできないことです。もちろんその人が良く知っている人なら手当をしても、知らない人なら通り過ぎるでしょう。まして敵である人ならならなおさらでしょう。

 このような深い哀れみと、完全な救いは主イエス・キリストが私たちのためにしてくださったことでもあります。十字架上で、彼らをお赦しださい。何をしているかわからないのです。と、私たち罪人のために祈られたお方なのです

 最後にイエス様は36,37節で「この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」「その人に憐れみをかけてた人です」彼は嫌っているサマリア人が隣人とは言えなかった。

 初めの25節に「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねました。律法の専門家が、何をしてもできなかったから、イエスの元に聞きに来たのです。イエスは、今まで律法完璧に行ってもできなかったのです。

 しかし、この律法を「行って、あなたも同じように行いなさい。」これでは堂々巡りです。律法だけでは「行い」はできないのです。

そこでイエス様はその具体的なことを明確に次の箇所で示しています。

ルカ10:38~42

 この箇所は、エルサレムの近くのベタニアという村の出来事です。ベタニアの話しは17章に出てきます。今まではガリラヤでのお話でしたから、時間的つながりでは無く、ルカは意図してここに持ってきたのです。弟子とイエスとマリアの家の人たち合わせて、最低でも16人の食事を作っていたのです。マルタは働き、マリアは男たちといたのです。これは当時としては考えられないことです。この場面ではマリアはマルタの忙しさも知っていたし、手伝うのが常識であり、兄弟関係を維持するには大切であることもしっていたでしょう。

 しかし彼女はイエス足元にいたかった。イエスのお話を一言も聞き逃すことの無いようにという思いだったのです。イエスはここで、「必要なことは一つだけであるマリアは良いほうを選んだ。」マリアは主を愛して、足元で礼拝し、主のみ声を聞くことだけの方を選んだのです。

 私たちもいま、私たちの罪のために十字架におかかりになり、赦してくださった主を信じ永遠の命を得ることなのです。命を得て、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主を愛する」者としてされた。主の物になった今は、主と共に歩む喜びによって、主の手足となり、「隣人を自分のように愛する」この律法が成就したのです。

 もう一度言います。

 律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか」と聞きましたが、イエス様はあなたに「その人の隣人になりなさいと言っているのです」自分で、隣人をここまでと範囲を決めるのではなく、イエス様の話にあったように、あなたの目の前に神の憐れみを求めている人がいれば、その人のところへ行くことです。その隣人に正面から向き合うことです。そのことで、あなたの今までの生活の全てに入り込んで来て、それは、痛みがあり、犠牲を払うことになります。

 それにはまず、マリアの指定席のように、イエス・キリストの十字架の足元にひざまずいて、十字架を見上げ、礼拝を献げています。それが、イエス様が私たちに与えられた最も大切な教えなのです。