2021年5月30日 「神の言葉を聞く」
聖書箇所 ルカによる福音書5章1節~11節
「シモンは『先生、私たちは夜通し働きましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」 ルカによる福音書5章5節
ルカによる福音書ではイエス様がおよそ30才のときに、バプテスマのヨハネから水の洗礼の後、荒れ野で悪魔の試みを受けられました。ガリラヤの各地で宣教を始められた。この場面は、イエス様が初めての弟子になるペトロを招かれた箇所です。何でも初めてなので、そのことを考えると印象深いですね。ここまでイエス様は、ガリラヤのユダヤ人の会堂・シナゴーグに出席してきた人たち。悪霊に取り憑かれた人。シモンの家の人々。そして1節には「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せたとき、」そして漁師たちにお出会いされたのです。
今日の聖書箇所ではイエス様は会堂以外で多くの群衆の前でも初めて教えられたのです。
この「神の言葉を聞く」という事『イエス様の言葉に』がイエスに従うことになる漁師たちと他のゆわいる群衆とはどのように違っていったのかを見ます。今日は私たちにとって「神の言葉を聞く」ことはどういうことかを共に考えましょう。
神の言葉として聞いていない
ここに押し寄せてきた群衆は「神の言葉を聞こうとして来た。」とルカは言っています。本当に神の言葉と信じていたでしょうか。前の4章36節には、「『一体、この言葉は何だ。権威と力を持って汚れた霊に命じると、出て行くとは。』こうして、イエスの噂は、辺り一帯に広まった。」この噂には、病気が癒やされ悪霊が追い出されることで、神の言葉が語られたとかイエスが神である事ではないようにおもわれます。群衆はイエスが人間として話す言葉を聞きに来たのです。しかしルカにとってイエス様の語る言葉は神の言葉なので、「神の言葉を聞こうとして、押し寄せて来た」と書いたのでしょう。それは私たちも同じように思います。
今、私たちは神の言葉を直接聞くわけにはいけません。旧約聖書を読むと、神の言葉を直接聞いた人々モーセやエリアなどが登場します。神様は人を通して語られます。旧約では預言者を通して、ルカの福音書のこの場面では、イエスという人物を通して神は語っておられます。今は私たちは礼拝で説教者が神の言葉として語ります。
自分が聞いた言葉が神の言葉であると考えるのは信仰によるということです。
前の章ではユダヤ人たちはナザレではイエスのことを「ヨセフの子ではないか」と全く相手にしないどころか、崖から突き落とそうとしたのです。イエスを預言者とか、救い主とは最後まで信じる信仰にいたることはなかったのです。イエス様の語る恵み深い言葉に驚きましたが、イエス様の語ったことを神の言葉と受けとめることはしませんでした。
それでは弟子たちはどうでしたか
最初は先生とした
2節のイエスのご覧になったとあります。何を見られていたのか。昨晩から漁をして、網を朝ご飯を食べてから洗っているのだろう、あの様子なら、きっとあまり捕れなかったのだろう。さらに彼らの心の渇きも知ってたのでしょう。そのイエス様は、舟に乗って丁寧に、舟を動かすように頼んでいます。イエス様が、聖書の中で人にお頼みになることは、この場面しかありません。彼らはイエスを載せてこぎ出しました。イエス様の謙遜で、穏やかで、気品を感じる場面です。
初めに言ったようにイエスはペテロの家を拠点としていたのですから、この行動はうなずけます。しかし聖書は時間字句通りには書いていないことがあるので、注意しなくてはいけません。
そして群衆に話しかける、イエス様の話を、神の言葉を同じ舟で聞いていたのです。
話が終わると、イエス様はご自分の計画を実行します。プロの漁師に、更に舟を沖に出して、漁をもう一度するように、先ほどと違って強い調子でいいます。命令です。ペトロらはプロ意識で『夜通し働いたのに』とプライドと衝突しそうですが、彼らは従いました。彼らがイエスのことを先生とよんでいます。漁師たちはイエスの話しをツバキがかかるような狭い舟で聞きながら、きっとこのお方は私たちにもっと良いことを教えてくださると。良いことに気づかせてくださるお方だと漠然と思ったのでしょう。自分たちが獲れないと思っていることは間違いないと思っていても「お言葉ですから」と言って、渋々でも従ったのです。この時点では、ペトロたちも、まだイエスが神である認識はなかったのです。
イエスを見て礼拝した
しかし、彼らの予想は見事に裏切られ、大量の魚が捕れたのです。両方の舟ともに魚がいっぱいになった。二艘とも沈みそうになったと。2重の驚きを重ねて表現しています。それは、8節の「これを見たシモン・ペトロは、膝元にひれ伏して、主よ、」ペトロはイエスを見たのです。目の前におられる方は、礼拝されるべきお方、主であることを知ったのです。それまであった漁師としても誇りや、自信は消えていました。
彼らが初めは良いことを教えてくれる先生と考えていました。今ペトロは奇跡をされたイエスを見たのです。その彼らの考えをはるかに越えたものはペトロにとって神以外には考えられなかったのです。
「主よ、私から離れてください.私は罪深い人間です。」
そして、イエスの前にひれ伏し初めての礼拝したのです。神と真正面と向き合うとき私たちは自分の罪を知り、その示されるのです.聖なるお方の前では、くずおれるのみです。
- イエスの御言葉にしたがった。
5:10「恐れることはない。今から後、あなたを人間をとる漁師になる。」
この「恐れ」とは主にお出会いした時の恐れです。イエスがペトロを見限られるという恐れ、ペトロがイエスを裏切るかもしれないという恐れ。全て自分の罪から来るものに気付くのです。「恐れるな」とは私はその罪を含めてあなたの全ての赦すためにあなたの所に来られたのです。と仰っておられるのです。
その時、彼の耳にはこの御言葉が“主”のものであると聞いたのです。彼らはその時この御言葉を聞いた直後、全てを捨てたのです。そして主イエスに従いました。しかし「人間をとる漁師になる」意味は彼らにはハッキリとは分からなかったでしょう。これはペンテコステを待たなくてはならなかったのです。
イエス様の方からペトロに近づいてくださっています。この後に弟子になるマタイもそうでした。それまで彼らはイエス様のことは聞いていたのです。彼らは信じる前から、イエス様を間近で身近で観察しながら、受け入れる準備をしていたかのように見えます。そして名を呼ばれるのです。その言葉が主の、神の言葉として受け入れたのです。それと同時に神を知ります。神の聖さを知り。それは自分の罪・汚れを深さを知るのです。
主イエス・キリストは聖なる力を示して下さり、「恐れるな」自分の罪を認めたとき罪から清めて下さり、神の御言葉として聞くことができる信仰を与えてくださるのです。それは永遠の命を与えられることです。それは私たちが何かができるようになったとか、良いことをした床とか、奉仕をしたことでも無く。ただ一方的に与えられるのです。そしてただ御言葉を聞いたら、その言葉従う者とされるのです。その喜びに満たされるのです。
「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁きを受けること無く、死から命へ移っている。」ヨハネ5:24
私たちは、神の言葉を信じた者の集まりです。そこには命を与えられた大きな喜びがあるのです。共に感謝しましょう。