2021年5月9日 礼拝メッセージ
説教題 「幸福の秘訣」
聖書箇所 「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」
ローマ人への手紙6章23節
国連の世界幸福度ランキング2021年度版が3月20日に発表
日本は幸福度ランキング56位 上位は北欧を中心としたヨーロッパ諸国です。
幸福度はアンケートの回答によって決められます。日本が欧米に比べてかなり低いとされたアンケトートがあります。「日本は昨日楽しいことはありましたか。に対しnoその逆の質問で昨日辛いことがありましたか。yesの回答が他よりに多かったのというのです。
日本人は楽しいことがなく。悩みが苦しみの日々が多く辛い。自分は不幸だと思っているのです。
なぜそんなにつらいのでしょうか。私たちは人間関係が悪くなり、破綻する事は、苦しみであり、辛い日常を送ることを知っています。家族、知人、親せき、職場、学校、あらゆる関係で、破綻してきています。それによって、さらに一人一人が孤立化し、自己防衛し、自分より弱い者を攻撃するように悪い方向に向かいます。このような中には楽しいと思える日は無いのです。私たち日本人も、昔から人間関係を良くしようと一生懸命にやってきました。しかし現代は深く関係を持つほどにそこには、妬み、嫉妬、いじめ、差別、優越、卑屈などの負の感情がわき上がります。
あなたのために言っているのに、どうして分かってくれないのか、それが相手を罵る言葉が浮かんできて、ついには絶望がおしよせます。それを解決する宗教はありませんでした。仏教は、苦行難行して、全てが無であると悟りを開きなさいといいます。じっと我慢しても私も周りも何も変わりませんでした。しかし欧米には聖書がありました。
それでは私たちはどうしたら、幸福になれるのか、つまり毎日の生活が楽しく、感謝して更に明日にむけても期待するということをその源はどこにあるのか、
それを今日の聖書箇所から共に発見していきたいのです。
幸福の源は神です。それは「私たちの主イエス・キリストにある永遠の命なのです。」
神様が与えてくださる幸福の力は、イエス・キリストなのです。そしてそれは永遠の命なのです。そしてそれは神の賜物であるとあります。こういうことが書いてあり。
三つのポイント
- 私たちは死んでいるから幸福ではない
- 幸福はイエス・キリストの命なのだ
- 幸福は神の賜物
1.私たちは死んでいるから幸福ではない。不幸だ
同時に不幸の根本的な姿も書いてあり。先ほどの幸福度の項目にあるのですが1人あたりのGDPが低く貧しいとか、あなとの友人や親戚に助けてくれる人がいない。ということが不幸の原因ではなく「罪の支払う報酬は死です。」この短い言葉に不幸の根本が書いているのです。
まず不幸の原因である罪がある。その罪は死に至る
聖書には三つの死があります
- 肉体は生きていながらの死 「生きているは名ばかりで実は死んでいる」
- 肉体の死 誰でも日頃から経験し、誰1人逃れることが出来ない。
- 第二の死 たましいの永遠の死です。
初めの死とは、神様は私たちを神様の姿に似せてお造りなりましたから、人間は愛と正しいことをしようとする思いがあります。先ほどのようにまずは相手を思って考えているのです。しかし人間関係はこじれるばかりです。
ところが新約聖書のパウロが書いたローマ人への手紙の中に、善いことを行いたいという気持ちがあるにもかかわらず、私の心の中には別のもう1人の自分がいて、良いことを行わず、憎しみと、妬みと自己中心と貪欲に満ちた生活になってしまうと。このような罪に支配されその中に生きていることが死んでいることなのです。ですから日々、本当の喜びは全く無いといっています。
つぎは肉体の死は、1人残らず、お金持ちでも名誉や地位も全てを剥ぎ取られた魂にされる。そしてこの死は私たちからやり直すチャンスを奪うのです。罪あるままの状態で神のまえに立たあければならないのです。そこでは私たちの心の内側をさらけ出されるんです。
三つ目がたましいの死です、これは肉体の死に続く、永遠の死です。
肉体の死が第一とすれば、たましいの死は第二の死です。
黙示録20:14、15「地上で罪を赦されていない者は、裁きによって、火の池に投げ込まれる。これが第二の死である。」永遠の死があるとハッキリと書いてあります。このような二回も死を味わい、その苦しみは永遠に続くのです。このような未来にある恐れがあるのに、この地上で何が期待できますか。これでは人の生涯は不幸でしかありません。
この三つの死の原因は罪だと聖書に書いてあります。
私たちの不幸は、私たちの中に罪の性質があるからです。神様は私たちに自由意志を与えました。アダムは自由を悪用して神に背いてしまったので、自己中な私たちはアダムの子孫として罪の性質がある。ですから子どもに悪の教育をしなくても、罪を犯すのです。
2.幸福はイエス・キリストの命
私たちは裁きの来ないうちに、この罪を赦してもらわなければ、どの死も逃れることが出来ないのです。罪は、人間には自分自身で赦すことも、救うことも出来ないのです。もう一度いいますが罪を持ったまま人間関係をよくすることなで出来ません。
4月教会ではイースターがありました。キリストは私たちの罪の身代わりのために、十字架におかかりになって苦しまれて死んで、墓に葬られました。そして三日目に復活されたのです。
「イエス様が十字架に架かって死んで下さる以外にあなたの罪を赦されることが出来ないのです。神様は、イエス様を私たち一人一人のために、人の姿となって、神として持っていた全ての栄光を捨てて、来て下さったのです。神様は、十字架の上で私たちに愛を表してくださったので、全ての罪の刑罰を引き受けて下さって、私たちの罪を解決して下さったのです。それだけではありません。私たちの主キリスト・イエスは三日目に復活されたのです。私たちはその復活の力によって、新しい命を頂いたのです。
私たちは復活のイエス・キリストを信じて従った時、この神の命が与えられ、キリストの体を着ることができるのです。古い自分はキリスト共に十字架につけられたからです。人をうらやみねたむ事、憤り憎むこと、自己嫌悪と自己憐憫に落ちること、これらの古い習慣や性格を全く無くなるということです。このことがこの世で生きていながら神の国に入らせてくださっているのです。イエス・キリストにあって愛と喜びに満たされ、明日への希望である永遠の命の保証を頂いたからです。それは私たちのキリスト・イエスにある永遠の命の中にも私たちはおる、といことです。
それが、昨日、今日、の喜び、明日の喜びを期待しているのです。幸せなのです。
3. 幸福は神の賜物
私たちは神から受ける復活の力つまり命をいただくことで、幸福になる力を賜物として受け取ることが出来るのです。
罪は死と不幸をもたらすだけでしたが、救いの道を開いて下さり、罪の裁きによる第二の死、永遠の滅びを免れた、永遠の命へ移されたのです。イエス・キリストを心の中で受けるとき、この世で生きている時もの御国に行くときもいつまでもその喜びと、希望に満たされて生きることが出来るのです。
これは、だれでも今すぐに願い求めれば今、与えられるのです。それは神様があなたに与えようとして、私たちが受け取るべき賜物だからです。それには、神様は私に使命を与えられているからです。それは、私たちが、イエス・キリストのように変えられる事を、神があなたに与えられた人々に伝える事です。そのためにあなたは選ばれ生かされているのです。
主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。
イエス様は私たちと何時までも共にいると約束してくださっています。いただいた幸福を遠慮なくさらに父なる神様に求め続けましょう。