2019年4月25日・聖霊のバプテスマ
「聖霊のバプテスマ」
聖書箇所 ルカ3:15~22
私たちはイースターから復活のイエス・キリストを見てきました。イースターから40日後が昇天日、復活されたイエス・キリスト今年は5月13日。10日後がペンテコステ。聖霊降臨日、その時から聖霊時代が幕開けです。教会の誕生でどもあります。その教会の聖礼典、大切な役目に洗礼・バプテスマがあります。イエス・キリストの名による洗礼もこの日から始まったのです。ところで今日の聖書箇所には「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」は違うものであると言っています。聖礼典として受けるのは、形式上、目に見えるものとしては「水のバプテスマ」です。それでは聖霊のバプテスマとは何でしょうか。
バプテスマは信仰の入り口
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。ヨハネ3:3
聖霊は私たちを回心に導く。バプテスマとは水に浸す。沈めるという意味です。すなわち死ぬことなのです。自分の罪を悔い改め、主に罪を告白し、イエス・キリストによる体の贖いの十字架に拠ってその罪が赦されます。イエスが葬られ、復活されたとき、私たちも新しい命が与えられます。洗礼は私はイエスと共に死んだこと、イエスと共に復活して新しい命が与えられたことを信仰告白するのです。それが新生の恵みです。これは聖霊に拠らなければ出来ないとヨハネは言ったのです。
「聖霊とバプテスマ」の関係についての御言葉はいろいろあります。2箇所見ます。
使徒2:38 「そこで、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。』」
〇これは悔い改めのバプテスマを受けた後に、聖霊を受けるのです。
使徒10:47では初めての異邦人が聖霊を受けて信じたのを聞いて、後から洗礼を授けたもの
Ⅰコリント12:13 「なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって、一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」
そして全てのキリスト者は聖霊によってバプテスマを受け、皆が一つの体としての新生の御業を体験したのです。
16章では「聖霊と火のバプテスマ」と言っています。火とは17節にある「殻を消えない火で焼き尽くす。」17vそれと9vには「オノは既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げこまれる。箕とはふるいのことで、聖霊によれば、あっても役に立たないもの、足を引っ張るものは、綺麗に残さず、切り捨てていくことです。別の言い方で「聖別する」ことをこの火は聖書では「聖め、さらに言えばその反対の裁き」をはっきり表した言葉です。
日本イエス・キリスト教団に初代委員長の小島伊助先生は聖霊のバプテスマというのは聖霊を受ける事であり、聖霊に満たされる事である。しかし聖霊のバプテスマと言うからには、ハッキリとした、明確な体験を自ら体得し、私たちに委ねられている霊魂を導くためには、それらが最も必要だ。
私たちは、このことを聖霊のバプテスマによって与えられるのが、第二の転機、聖め、ホーリネスとかいいます。
聖霊を与える約束
ヨハネ14:16「わたしは父にお願いしよう。父はもう一人の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(17)この方は真理の霊である。…………この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(18)私は、あなたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(19)しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
ここでは弁護者で助け主、私たちの所へ聖霊が来られると言う約束。それから私は戻ってくるという再臨の約束でもあります。
この約束を受け止めることは次のよう応答になるのです。
それがガラテヤ2:19,20「私はキリスト共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内にいきておられるのです。」と言う信仰です「キリストは聖霊と火にてバプテスマを施す、」これが自己絶望と内住のキリストなのです。聖霊の内住が単なる主観ではなく、「イエス・キリスト」が鮮やかにハッキリ現され、そのご実在とご臨在とともに、その愛と御意のほどが明確となり、その御内住のキリストが神様の恵みの全てです。主の働きは完全ですからそのようになるのです。
イエス・キリストは神であり、罪を全く犯したことがないお方が、罪人の間に並び、洗礼をお受けになられた。そのような罪人以上に従順なお方を「あなたは私を愛する子、私の心のに適う者」神の子であることを表したのです。このお方の臨在は、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と再臨の主を待ち望むのです。
神学生の1年の12月クリスマスキャロリングを神学校の周りを巡っていました。トイレでこけて、おでこをぶつけた。右半身がしびれてきたのです。救急車で運ばれその中で祈りました「クリスマス劇の主役をやるので、しびれが収まって、今日中に返してください。そうでなければ、牧師なることをあきらめ、学校をやめます。と主に迫ったのです。そのように祈った背景はもちろん自分の体のこともありますが、学校の先輩たちと私の中で彼らと通常の人間関係が作れずにいたのです。そう祈っていた直後に足のしびれは無くなったのです。学校へその日中に戻ったとき、いつも薄暗いぐらい男子寮は不思議なほど輝いていたのです。その輝きを見て、全ての先輩がこの瞬間私を赦してくださった確信を得たのです。そして私も赦すことができました。神様は私の祈りに応えてくださったのは、私の心の中にある自己中的な罪をぬぐい去って、新しく生まれ変わらせていただいたのです。
コロサイ1:27「神は彼らにこの秘技が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを、知らせようとされました。この秘技とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。」武田俊造先生はこの聖書の箇所から、下記の言葉を残されました。
「キリスト、わが内にありて生きたもうなりが、きよめなのだ。」
私たちは、与えられる聖霊の賜物によって神の身元に近づく事ができるのです。常に主を心の中心にいてくださるように求めていきましょう。