2021年4月18日「主はともにおられる」
苫小牧小羊教会礼拝説教
2021年4月18日
聖書箇所 マタイ28:16~20
中心聖句 マタイ28:20 「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
原文では、「そして見よ。私はあなたがたと共にいる。全てのこの日々に。この世界の終わりまで。」ここでは「そして見よ」は省略されていますが、マタイ書では大切な言葉の時に出てくる語句です。この場面はマタイによる福音書の最後です。イエス様が地上で語られる遺言。前にも言った辞世の句といえるのです。最後の最後のセンテンスです。
16節からの文章で大切な動詞は1つめが「全ての民を弟子としなさい。」それと同じように「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この「世の終わり」は「終結」という意味です。テレビドラマでは最終回であって、映画では最後の画面に「完成の完」の文字が映し出されます。完成を意味します。キリストの再臨によって新しい世界が完成するのです。その時に主の裁きがあって、主に従った者は義と認められ報いを受けることになります。
イエス様は最後に素晴らしい約束もって、弟子たちへの命令を終えたのです。ここ箇所は世界宣教命令と言われています。しかしそれ以上に、神は私たちに特別な恵みを与える約束をされたのです。「いつもあなたがたと共にいる。」という約束です。私たちに与えられている臨在信仰の基となるお言葉です。わたしたちはいつもイエス様の「この宣言」を口ずさみながら生きているからです。
今、「いつも」といいましたが、いつもとは「いつもあなたがたと共にいる。」という言葉は弟子たちがこれから遭遇するであろうは迫害や、困難、危険や恐怖、それらは宣教のための苦しみなのです。主イエスに出会った私たちは悩みと苦しみがあるのです。でも、その時にはいつでも主は「私はあなたと共にいると」言ってくださっているのです。
今日の箇所はどのような時に、誰に言われたのか。
礼拝
―16節を読むー
この「さて」とあるのは、前の文章から大きく変わることを指しています。直前は、番兵たちが「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいいた「嘘の噂を町中に広めた」ことが、イエスの復活を信じる者が一人でも増えることを必死で妨害しようとする、悪霊が激しく動き回っているのです。
このような中で、ユダを除いた11人の弟子がイエス様と約束されていたガリラヤの山でお会いします。この山がイエスが姿代わりされた山なのか、山上の説教をされた山なのかわかりません。この山は霊的な事が行われた場所であることを示しています。
ですから偽りの証言によりイエスの復活を否定する内容とは対象的に、ここでは復活のイエス様が弟子たちの前に現れ大きな希望が私たちに示されようとしていることがわかります。
―17節を読むー―
そして彼らは復活の主に出会うと同時に主を拝んだのです。これは先週に女たちが先にイエス様を礼拝していたのに続きます。イエスが復活されたという事実が弟子たちにとって神と同じ礼拝の対象となったのです「疑う者がいた」誰が何を疑ったのかはわかりません。イエスの復活を疑ったのか②礼拝の対象とすべきかどうかうたがったのか。しかし人には弱さがあります。
信じて礼拝していても信じられないと思う事があるでしょう。そのことをも主は知っておられるとうことで書いてあるならホッとします。しかしそのような者のためにも、未だ信じないのか、と言わずに近寄って来て、「見ないで信じる者は幸いだ」と言って下さるかたなのです。イエスはこの疑う者に対して言いました。
―18節を読むー
「私は天と地の一切の権能を授かっている。」天地を創造された方が、天地を保つために、被造物の全てを管理し、何をするか選び、全てのことを決定することが出来ます。この権能は父なる神が持っていたものを、イエスが引き継いだのです。それはイエスが復活なさったタイミングの時からです。
ピリピ2:8-11「イエス様が十字架の死に至るまで従順でしたので神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
「だから」礼拝と派遣を結びつけています。礼拝の最後の祝祷「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。(Ⅱコリント13:13)これは派遣の祈りです。19,20節を表しています
弟子化とは伝道と教育
弟子とはイエスの教えを聞いて、信じて、イエスを主と仰いで歩む人です。それをキリスト者とも言います。イエス様が従順に仕えたように主に従順に従い、イエス様に信頼し続ける人々です。
伝道は全ての民にと外国だけでは無く、国内、身近なすべての人々を対象としなさい。行って、行動するのですが。それはまず、主を礼拝する事から始まります。伝道と礼拝はセットなのです。
教育
命じた全てを守るように教えなさい。
イエスが語られた全てのこと。その中には、理解できないもの。信じられないもの。好まないもの。無意味に思えるもの。があるかもしれない。だが、自分の判断で、あらゆるものを除外するようなことはしてはならない。「守るように」は「実行するように」ということである。イエス様の教えは、知識としてしっている。分かっています。と言うだけにとどまらないのです。人間としてしなくてはいけないこと、してはいけないことなど、行動の規範となるものも含んでいるのです。
「私はあなたがたと共にいる。いつも」
私はいるというのは原文では「エゴー・エイミー」です。出エジプト記でモーセが主に燃える柴を見ようとして、道を外れて行くとお出愛したのです。その時イスラエルの民をエジプトから導き出しなさいと言われたとき。あなたの名は何ですか口語訳「私の名は『あってあるもの』」新共同訳「わたしはある」者だ聖書協会共同訳『私はいる』者。新約聖書はこれを「エゴー・エイミー」「わたしはある」「私はいる」エゴ-とエイミーの間にあなたがたと共にと言う言葉がはいっているのです。私はと言うほどイエス様の強いお気持ちがここに入っているのです。
マタイによる福音書はインマヌエル「神は私たちと共におられる」から始まって「私はあなたがたと共にいる。」で締めくくります。復活のイエス様はあなたがたと永遠に共に過ごすことをねがわれています。しかもあなたがたを迎えに来られるまで、決してあなたがたから離れることはないと約束されました。モーセは「私はいる」と言うお方土出会い。ピスガの頂で約束の地を見て死ぬまで主が「わたし自身が共に歩み、あなたに安息を与えると約束されていたとおりであった。
私たちも「私はあなたと共にいる」という方にお出合いしたのですから、インマヌエルを信じ、「主よ来て下さい。」が挨拶の言葉になるくらい喜びを持って生涯を完走しようではありませんか。「天の御国」を証する使命を持つ私たちにに「一緒にいて下さり。約束のものを与えて下さっているのです。