2021年4月11日/復活の証言
聖書箇所 マタイ28:1~10
中心聖句 マタイ28:6「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
イースターはイエス・キリストの復活したことをお祝いする日です。教会ではクリスマスよりイースターの方が重要です。イースターの日が毎年違うのは、春分の日の後の最初の満月の日野の次の日曜日とされているからです。これを決めたのが325年にキリスト教を公認したローマのコンスタンティヌス皇帝が初めて開いたニカイア公会議です。カトリックの本山が決めたのです。クリスマスは誰かがどこかでいつの間にか始まったお祭りです。
なぜなら。イエス・キリストはピラト裁判で十字架に架けられ、その上で処刑され、人間の墓に葬られ、死んだのです。3日目の週の初めの朝、その体が復活したことです。この復活は聖書のなかで教義的にも信仰的にもクライマックスだからです。
しかし、私たち人間には、死者の復活は信じられません。これは偉い学者でも子どもでも、復活は「それは後で聞くことにしよう」ととりあわないのです。それはキリスト教が根付かない日本でけでなく、聖書の中にも書いてあることです。
女たちの証言
聖書の中で、世界で初めてイエス・キリストの復活を信じたのが「マグダラのマリヤたち女性」だったのです。福音書に載っていると言うことは、この女性たちはキリストが死者の中から復活したこを証言したということなのです。
マタイ27:55,56,57―61,
ガリラヤからイエス様を慕ってエルサレムに来て、十字架と、死と、葬りをじっと見ていたのが彼女たちだったのです。この光景を一部始終目撃した女性たちは胸が張りさせそうな悲しみ、大きな希望から絶望の淵に突き落とされる敗北感。イエス様が天から遣わされた救い主として、この国の王として来られたと思っていたからです。墓に来たのは、イエスの死んだ体に香油を塗るためです。最後に正式な葬りをする。それしか希望がなかったのです。
マリアたちが墓に行くと、石は転がっていて、墓に入ることできるようになっていました。墓の中にはイエスの死体があるはずなのに無いのです。ここでは天使が現れ、マタイ28:6「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」主が復活さてたことを宣言された。彼女たちはそれを信じたのです。ですから、走って弟子たちに伝えたのです。
復活の証拠は①墓がからであった。②石が転がってあった。③天使が現れた。これだけでは状況証拠なので、判断できません。聖書にはイエス様の復活の状況を一切書いていないからです。重要なのは、この直後復活のイエスにお会いしたことです。このことは大きな証言となるはずでした。しかしこの時代女性の証言能力は認められていません。女性は感情で生きているとみられ、全く、その言葉を取り上げることは無かったのです。今とは正反対です。
しかし、聖書は、この女性のみが第一発見者であることを、あえて伝えているようにも見えます。もしこの事実を伝えたかったら、男性が見たととりあげるのが普通でした。賢明名判断でしょう。しかし、マリアの名を全ての福音書に載せたのは、事実だったからにほかありません。聖書はたんたんと、歴史的事実として、ここは伝え手いることが分かると思います。
実際、福音書によってニュアンスは違いますが、男性の弟子たちは、女たちのこの証言をルカでは「この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女の言うことを信じなかった。」と言っていました。
復活の主と出会う
マリアたちは復活の主に出会った瞬間 イエス様がお話ししていたことを思い出したのです。捕まって十字架の上で殺され葬られ、3日目に復活すること。マタイ20、18、19「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして人の子は三日目に復活する。」マタイ25:31「人の子は、栄光に輝いて天使たちをみな従えて来るとき、その栄光の座に就く。」
それでイエスの前にひざまずき、礼拝をしたのです。これを、復活のイエス様を初めて礼拝したのも彼女たちでした。
復活されたイエス様は「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私と会えるだろう。」
ここから、マリアたちは、恐れから、イエス様の十字架上の悲惨を見た恐怖から、その復活されたイエスにお会いできた喜びは全てに勝利する者に変えられました。しかし、イエス様がこれからどのように救われるのか、どのような世界を与えてくださるのか、全く分からなかったのです。ただ何にも代えがたいイエス様は復活したのだと確信は得たのです。
復活の証人
今、私たちには聖霊によって、神は目で見えなくても、イエスの復活を信じています。イエスが目の前に立っていなくても、イエス様がともにおられて、喜びに満ち溢れ、私たちはこの方の前で、頭を垂れ、ひれ伏して礼拝を献げています。
私たちには恐れがあります。不安があります。悩みがあります。しかし、主は私たちの髪の毛の一筋を知っておられ、「恐れるな」「私はあなたがたに合いに行く」と行ってくれています。
復活の主は私たちの前におられる事を受け入れたとき、復活の力を得ることが出来るのです。イエス様は死に勝利をされた方、天に昇り栄光の御座に就いておられます。
その勝利に私たちもあやかり、永遠の命を頂くのです。死からの勝利の列に加わる者、つまり私たちも新しい栄光の体となるのです。
マリアたち女性たちが空の墓を誰よりも先に目撃し、復活の主にお出会いした。そのことを、伝えたのです。福音書の記者たちはマグダラのマリアたちから直接、または人を介して聞いたのです。ですから話しの内容がすこしずつ違っていていいのです。マリアはこの後、聖書には登場しません。しかし復活の証人として語り告げられています。
教会は勝利者イエスを頭としているのです。私たちはそのことを喜ぶ者です、わたしたちは、神様以外に知られていない者です。しかしその名も無いもの一人一人が自分の体験「それは復活の命を頂く希望です」、苦しみが喜びに変えられた「復活の証人」となっているのです。この教会が復活の証人の集まりとなって生きているのです。